【鬼瓦】
海底に残された鬼瓦には、徳川のものであることを示す三葉葵紋が描かれている
カモメたちに見送られ熱海港から連絡船に揺られること約25分、相模湾に浮かぶ初島に着く。周囲4㎞ほどの小さな有人島だが、東京近郊で離島気分を味わえるとして一年中観光客は絶えない。ダイバーにも人気の島だ。
この島の西岸沖、水深20m前後の砂地が広がる海底に江戸時代の屋根瓦と陶製すり鉢などの遺物が多量に残されている。その中に岩礁のように見える5m四方ほどの遺物集積地区がある。一部乱れはあるものの、種類やサイズごとに整然と重ね並べられた瓦・すり鉢が多量に集積しているのが確認できる。
【平瓦】
上から見た平瓦集積部分。整然と3列(2段)に並んでいる。水没当時の姿をとどめているのであろう
主体を占める屋根瓦には平瓦、丸瓦、軒瓦(平・丸)、鬼瓦が見られ、瓦ぶきに必要な主要瓦が揃っている。鬼瓦の中心には「三葉葵」が描かれており、瓦群と徳川将軍家との関係をうかがわせる。
遺物集積地区は、それ自体が積み荷(商品)を連想させる。しかもほぼ水没時の状態を保っており、沈没船由来の可能性がある。瓦とすり鉢は、17世紀中頃から18世紀前半のものであることから、沈没船由来であれば、その船は当時大坂と江戸を往来していた廻船(貨物船)で、積み荷は江戸幕府のオーダー品であった可能性が高い。 江戸の町は、遺物の時期に相当する1657年に明暦の大火、1703年に元禄地震という2度の災害により甚大な被害を受けている。江戸城や幕府関連施設も例外ではなく、天守閣は明暦の大火で焼失している。瓦群は、このいずれかの災害で被災した江戸城・幕府関連施設の修復あるいは再建に使われるものだったのかもしれない。そして、すり鉢は城内で使われるものだったのか、なぜ海底に没したのか、などの疑問も尽きない。
【遺物集中地区】
上から見た遺物集積地区全景。上方(西側)のコの字型部分の砂中に板材が残る
真実は、350年以上もの間、ほとんど形を崩すことなく、人知れず海底に沈んでいたこの遺物群だけが知っている。
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」 考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、月刊ダイバー編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児 (やまもと・ゆうじ)さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
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http://membership9.wix.com/iriae#!yamamoto-biografia/cddr
文・解説=林原 利明 (はやしばら・としあき)さん
アジア水中考古学研究所理事/玉川文化財研究所主任研究員/東洋大学大学院修士課程修了/日本考古学協会員