人を笑顔にする写真を撮り続けたい 水中写真家 むらいさち

海の世界に魅せられて、写真という表現方法でその神秘性と美しさを追求することを生業にしている希有な人たちがいる。水中写真家という職業。水中という制約の多い世界で時には危険と隣り合わせになりながらも、彼らが海中という舞台にこだわる理由とは? 独自の世界観を持つ水中写真家たちのインタビューを通し、そのバックグラウンドと思想に迫る話題の連載。第6回目は、明るく、優しく、ハイキーな写真を水中で撮り続けるむらいさち。近年は、カメラ女子にも絶大な人気を誇り、ゆるフォト写真家として水陸で活躍するその原点に迫る。 文=須賀 潮美

 

むらい・さち

20歳から約4年間、沖縄の座間味島でダイビングインストラクターとして過ごす。その後、広告カメラマンの助手、水中造形センターの専属カメラマンを経て独立。世界のあらゆる場所で、むらいさちのフィルターを通した「しあわせな瞬間」を撮り続けている。写真集は、素顔のハワイを優しいテイストで表現した『ALOHEART Hawaii Visual Poem』(ライフデザインブックス)、ジープ島を透明感あふれるタッチで描いた『きせきのしま』(小学館)、ハワイのモロカイ島でのびのびと暮らす2人の少女を撮り続けた『Lino Lino』(ライフデザインブックス)。昨年から写真家の川野恭子さんとともにフォトライフマガジン『TORIPPLE』を定期的に発刊するなど、活動の場を広げている。

――Fanta Sea(ファンタシー)――

明るく、柔らかな色彩に満ちた夢のような海中風景を撮るむらいさちの世界を表現するのに、これほどふさわしい言葉はない。むらいは7月に開催する写真展に向けて、Fanta Seaな水中写真を撮り続けている。
ハイキーな写真は、陸上で撮っている写真家はいたものの、水中ではむらいが先駆者だろう。青はより青く、色鮮やかな魚はより鮮明に、リアルが王道な水中写真において、むらいはあえて革新的なハイキー写真を撮り始めた。と大上段に構えることなく、本人はいたって自然体でしなやか。緩く写真を撮っているだけとはにかむ。
「僕ほんとうに『超幸せ』って言いながら撮っているんです。僕の写真を見た人に幸せと感じてもらいたい、喜んでもらいたいと思って。きれいと思う写真を撮って、見る人の笑顔が思い浮かぶと、自分も幸せになれる。幸せな瞬間を皆と共有できると思うと、海に潜っていても楽しくなっちゃうんです」
おとめ座でB型、好きなことしかやらない、できないと言い切るむらいは、現在、超多忙を極めている。写真展に向けての撮影、カメラ女子とのフォトツアー、カメラショーでのトークイベント……。3月中旬のスケジュールは、フォトコンテストの審査員として和歌山県・串本に滞在した翌日は、東京で写真展の会場の下見、カメラメーカー訪問など打ち合わせ4本に取材1本と、ぎっしりと予定が詰まっていた。そしてその翌日にはオーロラ撮影のためにカナダに旅立つ。緩く写真を撮っているだけと言いつつ、怒濤の日々を過ごしている。
「スケジュールが空いているからという理由ではなく、僕に撮ってほしいと、指名で仕事の依頼が来ると断れないですよ。ほんとうに有り難いですし、しかもどの仕事も僕がやりたいことなんです」
むらいが「ほんとうに好き」と言い切る写真を撮り始めたのは25歳。プロカメラマンとしては遅いスタートだ。

「陸とか水中とかという写真の概念はありません。心惹かれるものがすべてです」

好きなことを突き詰め、たどり着いた写真家の道。

海のない埼玉県で育ったむらいは、幼い頃から海への憧れを持ち続けていた。将来なりたい職業は漁師。近所の小川で釣りをするのが好きだったむらい少年は、何が釣れるかわからないワクワク感、目の前の小さな川のはるか先に広がる海へと思いをはせた。だが、内気で恥ずかしがりな性格から「漁師と答えたら注目されてしまう」という理由で、将来なりたいものを聞かれると、誰もがなりたい無難な職業だからと「パイロット」と答えていた。
細身な容姿からは想像しにくいが、小学校からラグビースクールに入り、高校はラグビー推薦で入学している。ポジションはスクラムハーフというから、俊敏さはずばぬけていたのだろう。高校卒業後は、ラグビー推薦で大学へ進む道もあったものの、その頃にはラグビーは好きなものではなくなっていた。好きなことしかできないむらいにとって、大学進学は考えられなかった。そのかわり、むくむくと芽生えてきたのが、中学3年生の時に見た『彼女が水着に着がえたら』で憧れたダイビングインストラクターになることだった。
「もうチャライでしょ。当時すごくはやっていたので、男友達と2人で浦和の映画館で見たんですよ。その時に『沖縄でダイビングインストラクターになる』って友達に宣言しているんです。なんの根拠もなく、すごく楽しそうというだけだと思いますよ。たった2時間の映画に感化されました」
ダイビング専門学校に進みたいと思ったものの「遊びにはお金を出せない」と親が拒否。ふと手にしたビジネス専門学校のパンフレットに、オープンウォーターの資格が取れると書かれているのに釣られて進学。仕事にするならダイブマスターまで必要と、2年間で40本、最低基準をクリアして資格を取得した。
「皆さん、初めてダイビングをした時は浮遊感や魚を見ることなどに感動するじゃないですか。ぶっちゃけて言うと、ダイビングは職業訓練みたいなもので、別に感動しなかったんですよ。ただただ沖縄でインストラクターになりたいしか頭になくて。専門学校の先生(インストラクター)に座間味島を紹介してもらい、現地には電話をしただけで行ってしまいました。ダイビングも40本しか潜っていないから下手だし、器材を1つも持っていない、フィンすら持っていませんでした。よく雇ってくれたと思いますよ」  1年間、丁稚としてダイビング修業を積むと、インストラクター試験に臨み、見事合格。むらい少年が15歳で憧れた沖縄のダイビングインストラクターになった瞬間だった。
「すごくうれしかったですね。合格した時は飛び跳ねましたから。あの印象は今でも覚えています」
とはいえ、インストラクターは数多くのゲストを迎え、1からダイビングを教えなければならない。社交的でサービス精神旺盛でなければ務まらない。内気でシャイなむらいには向かない職業ではないか。ところがむらいは「内気だけれど目立ちたい」という、相反したジレンマを抱えていた。インストラクターになったのも沖縄に行ったのも、内気な自分が変われるのではないかという思いがあったという。 この選択は間違いではなかった。インストラクターになることで、目立ちたいという部分が、自分が目立つのではなく、人を喜ばせることで幸せを感じたいという思いに昇華した。
「すごく楽しかったんです。ゲストを連れて、潜るコースも見せる魚も自分で決められる。自分が好きなものを見せてお客さんが喜んでいる姿も見られる。こんな楽しい仕事はないと今でも思うんですよ。今の写真に通じてくるんですけど、喜んでもらうことがすごく好きな性格だと気づきました」

「伊豆大島で出会ったかわいいギンポちゃん。色が美しいです」

だが、インストラクターとして充実した日々は3年で終わりを告げた。このままインストラクターとして働き続けることに迷いが生じ、東京へ舞い戻ってしまったからだ。好きなことを見失ったむらいは、フリーターとしてもんもんとした日々を過ごしていた。バイト先で皿を洗いながら、このままではダメだと暗中模索する中、そういえば写真もいいかなと、写真教室に通い始め、講師の広告写真家のアシスタントに採用されると、写真スタジオで働き始める。25歳になっていた。
「僕単純なんで、プロカメラマンってカッコイイなという思いで。当時はまだ明確に撮りたいものがなくて、とりあえず写真業界に行ければと、広告写真のアシスタントになったんです。でもスタジオに閉じ籠って、黙々と作業をするのは僕の性に合っていませんでした」
広告写真は向いていないと気づき始めた頃、人づてに水中造形センターが水中カメラマンを募集しているという話を聞きつけた。ダイビングインストラクターであり、写真の知識もあることから、とんとん拍子で採用された。しかし、むらいはこの時、水中写真を撮ったことはなかったのだ。
「インストラクター時代はまったく写真は撮っていませんでした。ダイビングサービスのオーナーから「ニコノス」を借りて撮ったことはあったんですが、距離感がよくわからず、ファインダーではきれいに見えたのに、プリントしてみるとどれも違ってがっかりした記憶しかありません。高価なカメラに手を出すお金もなかったし、撮ってみたいという気持ちもありませんでした。それでも、当時からダイビング雑誌は憧れで、そこに名前が載るのはステイタスだと思っていましたから、採用された時は『やった!』と思いました。入社後はカメラを借りて、毎週のように伊豆に潜りに行って練習しました。最初は「ニコノス」で練習して、一眼レフは先輩に借りて撮りました。ところが一発で水没させてしまって。初めて持って、初めて水没させて、中味のカメラを弁償したという苦い経験があります」
組織の中では写真を撮るだけでなく、雑用もこなさなければならない。好きではないこともやらなければならない日々が、息苦しくてしかたがなかった。石の上にも3年と、3年間はがんばり、フリーに転向。29歳、一本立ちしたプロカメラマンとして踏み出した。

写真を通じて、人に喜んでもらう幸せ。

フリーとなったむらいの元には、ぽつぽつと依頼が舞い込んできた。かけ出しカメラマンのもとに来るのは、撮るものが決められた仕事で、自由に好きなものを撮れる状況ではなかった。スケジュールが合わなければ、むらいから別のカメラマンへ。つまり、むらいじゃなくても撮れる依頼が大半だった。その中で、2つのことが好機をもたらした。1つはデジタル時代の到来、もう1つは後に写真集にもなるジープ島との出会いだ。
「デジタルになったのは大きいですね。フィルム時代、オーダー写真を撮るときは、撮らなければいけないものが決まっていますし、フィルムで撮れるカット数も決まっています。記録として押さえることが優先されて、好きに撮ることはできませんでした。デジタルはたくさん撮れるので、いろいろ撮りまくりました。水中写真は差別化がしにくいじゃないですか。たとえば捕食のシーンなんかはインパクトがあるけれど、それは被写体の力で誰が撮っても変わらないかもしれません。自分の色をどう出していくのか、自分の撮りたい写真のスタイルを実現するために悩んで悩んで、試行錯誤しました」
そしてフィルム時代にはほとんどなかった、ふんわりとした優しい水中写真を撮り始めたむらいのもとに「むらいさんに、自由に撮ってほしい」とジープ島を撮る仕事が本誌を通じてもたらされた。ジープ島は、ミクロネシアのトラック環礁に浮かび、島の中心にヤシの木がそびえ、周囲を白砂のビーチとサンゴ礁が取り囲む、絵に描いたような無人島だ。
「ジープ島は行く前から波長が合いそう、行ってみたいと思っていて、それがかなった仕事でした。僕に撮ってほしい聞き、それもすごくうれしかった。初めて行った時にダブルレインボーが見られたんです。ウルウルしながらも、とにかく夢中で撮ったときの気持ちは忘れられません。24時間、どこにカメラを向けても絵になりますから、これほどすてきな島はありません」

「きせきのしま、ジープ島との出会いが、水中写真家としての道筋を示してくれた気がします」

むらいはこの島にほれ込み、長い時は2週間、プライベートも含め、6回訪れている。写真を撮りため『きせきのしま』の写真展も決まった。併せて写真集を出したいと思ったが、冷え込んだ出版業界で写真集を出すのは、著名な写真家でも苦戦する時代だ。いくら出版社を回っても芳しい答えは返ってこない。写真展開催まで残りわずかとなり諦めかけた頃、高砂淳二さんが小学館の編集者につないでくれた。
「編集者のかたがすごく気に入ってくれ、その場で「出しましょう」と言ってくれ、すぐに出版に向けて動き始めました。僕の写真に文章を添えることが決まった時は、ミュージシャンのCaravanを指名したら、快諾してくれました。Caravanは旅をテーマにした歌が多くて、自由で、聞いていて気持ちがよかったんです。彼なら奇跡の島を理解して、詩を書いてくれるのではないかと考えました。苦戦していたのがうそのように、とんとん拍子に話が進んで、人とも運命的に巡り合えて、この島の周りではほんとうに奇跡が起こると実感しました」
むらいが撮ったジープ島の写真で印象的なのが、島を取り囲むサンゴ礁が水面まで盛り上がり、半水面でヤシの木がそびえる小さな島、青い空と雲まで写し出された1枚。柔らかな色彩も相まって水と陸の境界がない。それはむらいの撮影スタイルにも通じる。水中だから陸上だからと撮影を意識したことはなく、被写体も自身のフィルターできれいと感じるものを選ぶ。最近のむらいは水陸両用写真家として活動範囲を広げ、カメラ女子とのフォトツアーによる町興しも手がけている。広島県・世羅町では一面のお花畑をむらいと巡るフォトツアーが開催され、3回目となる今年は、募集からわずか45分で満席となった。
「フォトツアーによる町興しはやりたかったことの1つで、写真が何かの役に立ち、いろんな人に喜んでもらえるのはうれしいですね。今治市で昨年開催した『しまなみカメラ女子旅』は、代表のかたが『きせきのしま』を見て、僕に頼みたいと熱いメールをいただいたことがきっかけです。そういう思いに触れると、ますます喜んでもらいたいと思ってしまうんです」

「心ときめくものをただ写真に残したいって思う」

「サンゴが一番好き! モルディブの広大なサンゴ礁に感動しました。世界のサンゴを撮りたい!」

大好きな写真を思う存分、思いどおりに撮る。しかも人を喜ばせたいという思いも、写真を通じてかなえられる。それが仕事になっているのはこんなに幸せなことはないと思いながら過ごしていたある日、東日本大震災が起きた。自分にできることはないか、写真で役立てることはないかと考えたむらいは、トゲトゲした人の心を癒やしたいと、フェイスブックに「心に花を」と、毎日花の写真をアップした。一輪の花から始まった試みは多くの人の賛同を得て、東北各地を回る写真展に発展した。ある時、むらいは会場となったカフェの前の川に植えられた桜の木が、津波の塩害で枯れているのを目にした。
「ここに再び桜の木を植えたい、花を咲かせたい、お金を集めるにはどうしたらいいか考えました。募金は一方的だし継続性がなさそう、来る人も楽しんでもらい、対価として入場料を払ってもらうものがいいと思い、友人の写真家に協力してもらってセミナーやトークショーなどを企画しました。ためたお金で、これまで4回、桜を植えに東北に行っています。とにかくこれは継続したい。イベントは大きくせずに、自分たちでできる範囲で続けていこうと思っています」
今のむらいには1つの願望がある。それは「もっと有名になりたい」ということだ。シャイなむらいがそう口にするのは意外に思えるが、自分が目立ちたいという功名心からではない。多くの人に助けられたから好きな写真を撮り続けて来られたと感じているむらいは、支えてくれた人たちに恩返しするには、もっと喜んでもらうにはどうすればいいか……。思い悩んた末に行きついたのが「関わっているプロジェクトをもっと広げるには、僕がもっと有名にならなきゃダメなんだ」ということだった。
「今でもインストラクター時代は幸せだったなと思っていて、ゲストが喜んでいる姿を直接見ることができましたから。写真もその延長線上で、見る人がハッピーな気持ちになって欲しいと思いながら撮っています。ほんとうに自分のイメージどおりに撮れるようになったのはここ1~2年で、そうなるとまた水中写真をもっと撮りたいという思いが湧いてきました。Fanta Seaに向けての撮影では、水中で表現したい色合いやイメージが明確にあり「これ最高でしょ、見て見て見て!」って思えないとシャッターが切れないんです。とにかく、これまで誰も見たことのない世界を見せたいと思っているんです」。

月刊ダイバー2016年5月号より

ページ数:見開き8ページ(P58〜P65)

>> むらいさちオフィシャルwebサイト

2016年7月7日〜24日まで、むらいさんの写真展が伊藤忠青山アートスクエアで開催されます!

 

Fanta Sea

むらいさちが見つめた、今までにないファンタスティックな海の世界

◉7月7日(木)~24日(日)11:00~19:00
伊藤忠青山アートスクエア
東京都港区北青山2-3-1シーアイプラザB1F
Tel.03-5772-2913 www.itochu-artsquare.jp
※開催期間中、トークショーなどイベント多数開催予定

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Amano

DIVER ONLINE 編集部

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