『アルマ・ジェーン』はレック・ダイブのトレーニングにも適している(Photo by Andreas Matthes)
私と彼女の最初の出会いは2005年の3月だった。久しぶりに友人たちを訪ねてフィリピンのミンドロ島に渡り、彼らが営むダイビングサービスに2週間の旅に出かけた時だ。目的は5年ぶりの旧交を温めることと、「テクニカル・レック・コース」に参加することであった。
「テクニカル・レック・コース」は、水深40mを超え計画的な加速減圧停止を伴う沈船内部のペネトレーション※1を行う。水没洞穴を潜るケーブ・ダイブと並ぶ、閉鎖環境潜水である。
『MV※2アルマ・ジェーン』は、プエルト・ガレラの沖合い100mほどの潮通しがよく、透明度の高い平均水温27℃の熱帯の海に沈んでいる。水深30mの白い砂地に船首をほぼ北に向けて静かに船底を沈める。船首のマストは祈るように真っ直ぐ銀色の水面を指し、聡明な少女のように凛々しい。
彼女は2003年4月に沈んだ新しい船だ。正確に言えば、この地域のビーチで営業する30余りのダイビングサービスと地元のバランガイ※3のプロジェクトで“沈めた船”である。世界各地からここを訪れるダイバーに、手軽にレック・ダイブを楽しませる目的で沈めたのだ。したがって『アルマ・ジェーン』は、ダイバーの安全と自然環境に配慮して、燃料、スクリュー以外のエンジンと駆動部分、航法機材、居住区内の艤装と船体内部の構造物を取り払って沈められた。だが人為的に沈めた船だといって彼女を侮ってはいけない。
全長30m高さ10m重さ約80tの贅肉を削ぎ落とした彼女の引き締まった船体は、やがてソフトコーラルがびっしりと着いた格好の魚礁となり、そして今では魚たちの住みかとなった。
水面のブイから常設ラインに沿って潜降する。すぐに貨物船としては小柄な『アルマ・ジェーン』の全景が現れる。潜降ラインを舫った後部甲板の水深は24mだ。姿勢を水平に維持して浮いたまま、所定の手順を踏んで、減圧シリンダーを甲板上に置いた。
ほんの少しだけ浮力を減じるために、左手を後ろに回してウイング型BCDの底にある排気バルブを指で探る。バルブのラインを指でつまみ、わずかに引いて排気し、船尾にある約2m四方のカーゴ・ホールから静かに中に入る。内部の高さはおよそ2m。幅はダイバーが3人並列に移動できる広さだ。両舷と天井の所々に設けた開口部から差し込む熱帯の太陽光は、碧い水のフィルターを通って、伽藍洞の船体内部をわずかに蒼く照らし出す。あえてフィンガー・クロール※4やシャッフル・キック※5を使わなくてもシルト・アウト※6することはまずない。先に入ったトレーナーのサムが向きを変えて、私にバルブ・シャットダウン・ドリル※7の合図を送る。そうだった。このダイビングは私の技量評価のためのチェック・ダイブなのだ。いつものように水平姿勢で中層に浮いたまま、正面近くの床の一点に視標を定めて呼吸パターンを維持することに意識を集中した。
その後、彼女とは幾度となく逢瀬を重ねたが、いつも機嫌良く私の相手をしてくれたわけではない。ベルデ島を挟んだルソン島とミンドロ島の間を抜ける狭いマニラ・パスは、潮回りと風向きにより熟練したダイブガイドやボートマンでさえ読み切れない流れを作り出す。ときには思わぬ潮に出会い、ドリフトしながら中層で計画どおりの減圧を終えた結果、2㎞先まで流されたこともある。とはいえ、回遊魚やサメに出会うチャンスもある減圧しながらのブルー・ウォーター・ダイブもエキサイティングだ。
フィリピンに行くことがあれば、ぜひ彼女に会いにプエルト・ガレラに足を伸ばしてほしい。レック・ダイブは、無条件に誰にでも安全とはいえない。レック・ダイブ特有の必要な装備を整え、スキルを磨き、危機回避の方法を学ぶコースから始めてほしい。そんなダイバーになら、楽園の『アルマ・ジェーン』はいつでも楽しく遊び相手をしてくれる。
【月刊ダイバー2013年1月号より】
※1=構造物内部への侵入。問題に遭遇した場合、閉じられた環境のため直接水面への浮上ができない
※2=艦船接頭辞。MVはMerchant Vesselの略号で商船を意味する。M/Vと表記することもある
※3=Barangaysは、タガログ語で村や区などの最小行政単位。バリオ(Barrio)と言うこともある
※4=指先だけを使って這うように移動するテクニック
※5=腿を使わず膝と足首だけを小刻みに動かすバタ足。モディファイド・フラッター・キックともいう
※6=船内の塵や錆、泥などを巻き上げて濁ること。完全な視界不良となることもある
※7=テクニカル・ダイビングのスキルで、アイソレーター・マニホールド・バルブ付きダブル・タンクのバルブ開閉練習
↓2003年4月に『アルマ・ジェーン』が沈められたときの様子(Photo by Dave Ross)