左舷側に傾く船首
日の出桟橋から初めての小笠原へ
1989年12月の初旬、まだインターネットも携帯電話も普及していない時代、年末に入って人々が慌ただしく走り回る季節に、初めて私は小笠原を訪れた。今からおよそ25年前のことだ。
当時、まだ日本のPADIは、現在のように各地に独立したインストラクター開発センター制度を導入していなくて、したがって日本国内でのインストラクター・トレーニングを、PADIが直接運営する「PADIカレッジ」が独占的に行っていた時代だった。
その「PADIカレッジ」がインストラクター向けスペシャルティ・コースを小笠原で開催するという案内を受けて、その時「レック・ダイバー・インストラクター」資格がなかった私は、前々から行ってみたいと願っていた小笠原へ、個人的なダイビング旅行に近い気分で参加した。その年の春から遅い秋にかけては、様々なレベルのダイビング講習で忙殺され、よく働いた自分への褒美として、芝浦の日の出桟橋1※から『おがさわら丸』に乗った。まさに“渡りに船”とはこのことだ。世間は師走で、たとえ嘘でも忙しく、あるいは忙しそうに見せているというのに。
『延寿丸』との運命の出会い
自分が受けるべきコースが終わり、残りのスケジュールを、父島の海で潜る経験で埋められればいいと考えていた。平日のよく晴れた日、今回のインストラクター・コースで利用するダイビング・サービスのスタッフであり、番頭格でもあるスギウラさんが、私だけを誘って「滝之浦に行きましょう」と言う。その時なぜか、きっと特別な出会いがあるだろうという予感がした。デジャヴ2※、前にもこのようなやり取りをどこかでした、という確信に近いものだったといってもよい。
2人で二見港に係留したサービスの船の舫を解いて、兄島に向けて出港する。程なく、紺碧の、そして透明感のある12月の海上を吹き渡る北西風の陰に入る滝之浦に到着する。スギウラさんは、山だてをしながら細かく、そして慣れた手つきで舵を操り、何度か小刻みに前後進を繰り返した後、「よし、ここだ!」という納得のいった表情で私に合図を送った。間髪を入れず、私は手に持ってスタンバイしていた錨を蒼い鏡の海に落とした。割れた鏡の向こう側に吸い込まれてゆく錨がくっきりと見える。足元のアンカー・ラインがまっすぐに海中に繰り出されて行く。
すぐにウエイトを付け、シングル・シリンダーの通常のスクーバ装備を背負い、数秒でバディチェックを完了し、我々は同時にジャイアント・ストライドで小笠原の海にエントリーした。眼下には、延々と砂紋が広がる白い砂漠に、美しい船が、かつて輸送船として活躍した姿をほぼ留めた状態で、行儀よく“正座”して沈んでいる。さらに潜降を続け、そのレックに接近するにつれて、彼女の最後の様子がどのようなものであったか、具体的な状況が視界に飛び込む。太平洋戦争末期の民間から徴用されたと思われる輸送船の主な積荷は軍装品だったようだ。中央甲板付近には、散乱する20㎜機関砲弾、鉄鋼弾の弾倉の束、むき出しの500㎏爆弾、軍用ジープなどが生々しく原形を留めたままだ。
海中の砂漠に鎮座する彼女の名は『延寿丸』といわれている。思わずスギウラさんと目を合わせ、胃袋が裏返り、心臓を握り潰されるような、なんとも説明のできない感動で視線だけの会話を交す。私が沈船を見て、激しく心を揺さぶられた、刺激的な最初の経験であった。
着底して水深計を確認すると43mだ。すぐに浮いて船尾に移動する。水面に向かって直立するアンカー・ラインを見上げると、無人の白い船底が、正中する太陽の逆光に映えていた。
資料から探る「フカチン」の正体
滝之浦湾には「フカチン」と呼ばれる沈船がある。呼称の由来は単純明快で、そのレックは40mを超える深場に存在するからである。『延寿丸』とも呼ばれているが、実際のところ彼女の正確な船名は不明だ。
滝之浦には、この「フカチン」以外にも「バラチン」3※や「ヨコチン」4※など、存在する形態に合わせた呼称の沈船ポイントが複数あり、小笠原を訪れたことのあるダイバーなら、一度は経験する代表的なダイビングポイントでもある。だが通称「フカチン」、『延寿丸』は、レクリエーショナル・ダイバーの最大限界深度である40mを超える海底に沈んでいることから、今では通常のダイバーが訪れることは多くはないらしい。
小笠原兄島の沈船群は、太平洋戦争の末期、1944年7月の父島空襲に際し、滝之浦湾に退避した6隻の輸送船団であろうと推測できる。国立国会図書館の資料5※によれば7月4日に、『昭瑞丸』(東和汽船 2720t)、『志摩丸』(大阪商船 1987t)、『辰栄丸』(辰馬汽船 1942t)、『第八運洋丸』(中村汽船 1941t)、『大功丸』(大洋海運 897t)そして『第五利丸』(西大洋漁業 298t)の6隻が米空軍の空襲によって滝之浦に沈んだ。そしてこの中には『延寿丸』の船名はない。
さらに資料を探ると、同年8月4日の記録に、父島から横須賀に向かって出港した5隻の輸送船団の中に『延寿丸』(岡田商船 5374t)の名前が存在する。この5隻の船団は、二見港を出た直後の午前10時過ぎに、アメリカ機動部隊の空襲で沈められた。
滝之浦の「フカチン」が『延寿丸』でないと仮説を立てて立証するには、「フカチン」と『延寿丸』の船体構造、大きさ、積荷などから探るしかない。
そこで私は、この目で確認した『延寿丸』すなわち「フカチン」の積荷が、当時の積荷目録が存在して、その記録と合致すれば、彼女が『延寿丸』であるのか、あるいは私が見た沈船が、少なくとも滝之浦に退避して沈んだという記録に残る6隻の船のどれかだと確定できると推論し、『昭瑞丸』『志摩丸』『辰栄丸』『第八運洋丸』『大功丸』そして『第五利丸』の6隻と『延寿丸』の積荷目録を辛抱強く探してみた。しかし現在のところそれもかなわず、今となっては「フカチン」の船名が『延寿丸』なのかどうかは、「フカチン」を実測し、その大きさから排水量(トン数)を推測し、滝之浦の6隻のなかのそのトン数に近い船が「フカチン」の“本名”ではないかと類推するしかない。
16年の時を経た姿
2012年10月、私は16年ぶりに3度目の父島を訪問した。あの滝之浦の『延寿丸』がどうなっているのかを知りたいと思ったのだ。カサイさんの操船で、シゲさんに「フカチン」に案内されて、私は彼女に再会した。長い年月の間に、文字どおり外洋の荒波に耐えて、それでも彼女は健在だ。「フカチン」の船体中央は左右に開き、船首は左舷側に傾いてしまっている。彼女はけなげに年老いた船尾をすっきりと立ち上げ、相変わらず見応えのある積荷の爆弾や砲弾と銃弾はそのまま6※で、「私はこの滝之浦では特別な存在なのよ」とダイバーを挑発する。
予定の潜水時間が迫り、私たちは群青の空間を水面に向かって上昇した。彼女が若かった頃に運んだ物資と乗客、1000㎞隔てた本土と島を往来し、乗船した兵士と乗組員の生活、そして彼らの家族、それぞれの人生の物語を乗せた「海中の廃墟」の来歴に思いを巡らせた。
※1=現在、『おがさわら丸』は竹芝桟橋で出入港するが、当時は日の出桟橋を使用していた
※2=Deja-vu、フランス語が語源。意味は既視感
※3=元の船の形がなく海底に「バラバラ」に散逸することから名付けられた
※4=横倒しの状態で沈んでいるのでそれがポイント名になったといわれる
※5=「小笠原輸送船団の戦闘」。第二次世界大戦当時に軍から輸送船として徴用された民間船の記録は、日米を問わず詳細は残っていない。太平洋戦争時の民間乗組員の死亡率は46%といわれ、海軍将兵の16%に比較して圧倒的に戦死率は高い
※6=興味本位に沈船に残された遺物を持ち帰ってはならない。レックダイバーとして最低限のマナーで、とくに処理されていない砲弾や機銃弾を水から引き揚げることは大変危険でもある