【てつはう】
直径約15㎝の球状で、上面に約4㎝の穴があり、中に鉄片や陶磁器片が詰められている。高い殺傷能力を持っていたと思われる炸裂弾である
長崎県本土北部、伊万里湾に浮かぶ鷹島は、約730年前の蒙古襲来に関わる戦場跡である。蒙古襲来(文永・弘安の役)は、文永11(1274)年と弘安4(1281)年の2度にわたり元の皇帝、フビライの命を受けた元軍が日本に侵攻した事件で、鎌倉幕府瓦解の遠因となる我が国の中世の政治・社会に多大な影響を与えている。
鷹島は、弘安の役の際に、元軍4400艘の大船団と約14万人の兵が暴風雨により海に沈んだ場所で、古くから地元の漁師によって壺類や刀剣や碇石などが引き揚げられていたことから、昭和55年度水中考古学の調査地点に選定され、これまで約30数年にわたって「鷹島海底遺跡」の調査が行われている。
鷹島は、弘安の役の際に、元軍4400艘の大船団と約14万人の兵が暴風雨により海に沈んだ場所で、古くから地元の漁師によって壺類や刀剣や碇石などが引き揚げられていたことから、昭和55年度水中考古学の調査地点に選定され、これまで約30数年にわたって「鷹島海底遺跡」の調査が行われている。
平成23年秋に、水深20〜25mの地点から元の沈没船の船底部にあたる竜骨と両舷側の板材が発見され、報道機関により一躍脚光を浴びたところである。また、積載品の内容から武器をはじめとする各種道具の実態が判明するなど、これまで文献・絵画によってしか知られなかった蒙古襲来の具体的様相が明らかになったことから、蒙古襲来を理解する上で欠くことのできないきわめて重要な遺跡であるとして、平成24年3月に鷹島海底遺跡の一部が日本初となる国史跡「鷹島神崎遺跡」として指定を受けている。
【隔壁板】
船体の一部。クスノキ材を加工。船の浸水を一部にとどめるため船内を仕切る壁である。逆台形状を呈し、全長は5・67mほどある
【鉄製かぶと】
ヘルメットとほぼ同じ大きさ。全体がサビや貝殻で覆われており、これを除去するとかぶとの形状が失われる危険性があるため、引き揚げたままの状態で壊れないような保存処理を行っている
これまでの調査では、さまざまな遺物約4千点以上が引き揚げられており、小・中学校の教科書によく出てくる「蒙古襲来絵詞」に描かれた「てつはう」と考えられる球状土製品が多数出土するとともに、武器や武具も「蒙古襲来絵詞」に描かれている元軍の装備と類似しているところから、弘安の役の暴風雨で沈没した元軍の船の積載品であることが確実となっている。 我が国に大きな影響を与えた蒙古襲来、他に例を見ない歴史上の大事件の舞台となった鷹島を後世に正しく伝えるとともに、「鷹島神崎遺跡」は我が国の水中考古学の発展・振興に寄与できる重要な遺跡でもある。
【銅銭】
88枚がまとまって出土した例もある。全部で102枚あるが、日本では珍しい実用銭ではない、縁起物や護符とする銭(福禄壽昌)も出土している
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」 考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、月刊ダイバー編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児 (やまもと・ゆうじ)さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
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http://membership9.wix.com/iriae#!yamamoto-biografia/cddr
>>月刊ダイバーで連載中
文・解説=中田 敦之 (なかた・あつゆき)さん
松浦市教育委員会文化財課長/社会教育主事、学芸員、司書資格/日本考古学協会会員/考古学研究会会員