【砂に埋もれる残骸】
プラットホームの残骸だろうか。このような残骸が海底のいたるところにみられる
「関千軒、芦屋千軒」。江戸時代、下関とともにその繁栄がうたわれた芦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)は、かつて全国津々浦々に陶磁器を売りさばいていた筑前商人の故郷である。響灘に面した芦屋港から有田焼の積み出し港であった伊万里港に船を回し、陶磁器を買い込んでは全国の市場に供給していた。現在ではあたりまえのように食卓を彩っている磁器の器であるが、一般庶民への普及は江戸中期以降のことであり、それにひと役買っていたのが筑前商人であった。江戸末期の記録によると、伊万里港から積み出される陶磁器の3分の2を筑前商人が扱った年もあったという。
【調査ダイバー】
陶磁器を手にした調査ダイバー。海底の岩礁に今なお陶磁器が残されている
有田焼は全国に船で運ばれていたため、全国の海の底から沈んだ有田焼が見つかっているが、とくに芦屋の周りには多い。それだけ有田焼を積んだ船がこの海域を行き交っていたのであろう。海底だけでなく、芦屋町に隣接する岡垣浜には沈没した船の積み荷と思われる大量の陶磁器が今も漂着している。
【透視度】
台風直後のため、少し濁りがあるが、平常時はもう少し透明度が高い
そして、この漂着海岸の沖合いに芦屋沖海底遺跡がある。1989年に北九州市内のダイバー(今林忠義さん)によって偶然発見されたものである。水深二十数メートルの海底では100点以上の有田焼などが発見され、引き上げられている。そして、その後の潜水調査でも一部見つかっている。ほとんどの製品が幕末のものであり、沈没した積み荷の一部と推定される。碗、皿、蓋物、鉢、火入れ、香炉、灰落としなど器種は豊富であり、中でも目を引くのが大皿である。いずれも口径が40㎝以上の有田焼で、重なって見つかったものもあり、おそらく縄で結わえてあったのであろう。いっぽう、小皿や中皿は佐賀県嬉野市の志田西山で焼かれた志田焼である。志田焼はもともと塩田商人が扱っていたが、幕末になると伊万里商人が有田焼だけでなく、志田焼の販売に参画し、その販路を全国に拡大することになった。有田焼と志田焼が同じ船で運ばれていたことはこれらの史実を反映したものである。海底遺跡は当時の流通のあり方を教えてくれる貴重な資料となる。
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」 考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、月刊ダイバー編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児 (やまもと・ゆうじ)さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
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http://membership9.wix.com/iriae#!yamamoto-biografia/cddr
文・解説=野上 建紀 (のがみ・たけのり)さん
1964年、福岡県北九州市生まれ。有田町歴史民俗資料館調査員を経て、現在、長崎大学多文化社会学部准教授。博士(文学)。専門は考古学。