【柱】
主要な柱の直径は20㎝程度、高さは残りの良いもので65㎝程度を測る
日本最大の湖である琵琶湖には「かつて存在した城や集落が、大地震によって水底に没した」という伝承が数多く残る。今回紹介する長浜城跡も、そうした遺跡の1つだ。
【正面】
正面側より。建物の主構造を構成する柱と、庇となるやや細めの柱が見える
豊臣秀吉の出世城として有名なこの城は、天正2年(1574)に築城を開始し、元和元年(1615)に廃城となった。その際に城郭は徹底的に破壊され、往時の姿がほとんど分からない、謎多き城でもある。
長浜城を巡っては、古くから天正13年地震(1586)との関連が指摘される。M7・8とも推定される被害は甚大で、城主であった山内一豊の娘、与禰姫が圧死するなど、痛ましい記録も残っている。城そのものが水底に没したとの記録もあり、滋賀県立大学の学術サークル「琵琶湖水中考古学研究会」が調査を行ってきた。今回紹介する建物遺構も、こうした中で確認されたものである。
【水底】
湖岸は目と鼻の先にあるが、水底の様子はほとんど知られていない
遺構は沖合約100m、水深約1・8mの地点で確認された。直径約8m、高さ30㎝以上の楕円形の小山状に礫を集積し、桁行一間(約1・8m)、梁行一間(約2・1m)を測る建物が頂上に建てられている。
【水草】
夏場には水草がジャングルの様に繁茂し、調査は困難を極める
放射性炭素年代測定法の結果、柱材は19世紀初頭の伐採と推定された。また当時の水位と建物遺構の立地標高との比較からは、地盤沈降によって湖底に没したものと考えられる。
当時、滋賀県内に被害をもたらした地震には文政近江地震(1819)が挙げられる。M7・2と推定されるこの巨大地震によって地盤沈降を生じ、湖底に没したのだろう。
【グリッド】
グリッドと呼ばれる方形区画を設定し、実測作業などを行なった
当遺構の発見には、大きく2つの意義がある。
1つ目に、日本の水中遺跡として初の、建物遺構の発見である。従来は柱材が散発的に確認されることはあったが、復元に至ることはなかった。
2つ目に、これまで長浜地域では文政近江地震の被害は知られてこなかった。今日の地震被害想定において、歴史地震の記録は文字通りの基礎資料である。
水中遺跡は過去の歴史を、時にそのままの姿で伝えるタイムカプセルであり、その実態解明は歴史像の復元のみならず、現在に生きる私達に多くの示唆を与えてくれる。
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」
考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、DIVER編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
>>this is the link with your pubblication…under your Picture:
http://membership9.wix.com/iriae#!yamamoto-biografia/cddr
文・解説=中川 永さん
滋賀県立大学大学院博士後期課程/日本学術振興会特別研究員/アジア水中考古学研究所会員/琵琶湖水中考古学研究会代表