滋賀県高島市の琵琶湖湖底には、「現在の琵琶湖湖岸から百閒沖合いの場所に、かつて「大三ツ矢」と呼ばれた集落が沈んでいる」と伝承が残されている。この集落には船持問屋があり栄えていたが、ある時水底に没し、水の澄んだ日には、湖底に石垣や石橋を見ることができたという。この水没伝承が残る集落跡を、「三ツ矢千軒遺跡」と称している。
【五輪塔(火輪)】
花崗岩で造られた仏塔の部材の1つ。
今回取り上げるのは、湖底に沈んだ石塁状の遺構である。水深1.6~2.0mに立地する当遺構は、現湖岸から沖合い約50m付近で発見され、南東方向に向かって約80m、先端部付近では直角に曲がり約24.5m延びる、長大なL字状を呈している。幅はおおむね6~10m程度で、最大で11.5mを測る。
【ダイバーと石材】
平均的な大きさの石材でも、相当の大きさがあることがわかる
石塁を構成する石材は大半が自然石だが、最大のもので一辺1.7mに達する巨石を数百個単位でている。また阿弥陀如来をかたどった石仏や、仏塔である五輪塔などの石造物も確認できる。これらはいずれも16世紀後半代に造られたもので、工事や運用上の安全を祈念して祀られたものであるのか、あるいは単に石材として用いられた可能性もある。いずれにせよ、遺構の規模、石材の大きさから考えて、相当の労力をかけて築かれたものであることがわかるだろう。
【石塁を構成する石材】
中央に五輪塔の基礎材(地輪)が確認できる
遺構の性格についてはいまだ不明な点も多いが、現在の琵琶湖湖岸でも、同様の石塁を確認することができる。その多くは河口部などに築かれた港に所在し、コンクリート建築が利用される以前には、琵琶湖の流れによってもたらされる土砂の堆積を抑制し、同時に船の係留を行う役割を担っていたようだ。よって当遺構は、かつて船持問屋を経営し栄えたとされる港町、すなわち大三ツ矢の生活を支えた港そのものである可能性が高い。
【陶器片】
遺跡周辺には、奈良時代以降の遺物が散布する。
遺跡の水没原因については、石造物の年代や古文書の記録から、寛文2(1662)年の大地震の影響が推定され、湖底・湖岸地形の地質学的調査からも地滑り痕跡が確認されている。港という生業の要を失った人々は、その後、内陸の鯰川という地に移り住んだと伝わっている。
【阿彌陀如来坐像】
各部の意匠が簡素化された、中世末期の典型的な造形。
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」
考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、DIVER編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
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文・解説=中川 永さん
豊橋市文化財センター/アジア 水中考古学研究所会員/琵琶湖 水中考古学研究会代表