中央アルプスを水源とする矢作川は、長野県から岐阜県へ、そして愛知県の西三河地方へと流れる、一級河川である。今回紹介する矢作川河床遺跡は、現在の豊田市と岡崎市を境とする位置に所在する河川の水中遺跡だ。
当遺跡を特徴づけるのは、水底や岸辺に点在する埋没林である。埋没林とは、かつての森林がそのままの形で埋没したもので、遺跡周辺では約3000年前の縄文時代晩期の樹木が、立ち株や倒木として姿を現している。これら樹木は、大きなもので幹回り60cm以上、主幹の長さ10mを超えるもので、クリやコナラなど落葉広葉樹を中心に、100か所近くで確認されている。調査が行われた範囲は一部にとどまるため、実際の数がさらに多いことは間違いない。また樹木が生える土壌内部からは、ヒメコガネやドウガネブイブイなど、これら植物を食料とする昆虫の化石が確認されており、まさに縄文時代の生態系が、タイムカプセルのように姿を現している。
姿を現した樹木。長期間埋没していたため、黒く炭化している
こうした豊かな自然を求めて、私たちの先祖もこの場を訪れたようだ。発掘調査では縄文時代中期~晩期にかけての土器が多数確認され、煮炊きを行った人々の姿が想像できる。森林の幸と川の幸を入手しやすい立地は、狩猟採集生活を営む人々にとって優れた生活基盤となっていただろう。
長さ10m以上の樹木。株が手前を向き、奥の人物の位置まで主幹が伸びている
このように豊かな植生を育んだ森林だが、200~300年間という比較的短い期間に栄えた後、約2800年前以降、次第に埋没したものと考えられている。それを裏づけるかのように、長期間土中に眠っていた樹木は黒く炭化し、鈍い光沢を帯びるものもある。遺跡内では15世紀代に造られたと推定される井戸跡も確認されることから、現在河床である一帯は数百年前まで、人々の生活に適した安定的な陸地であり、埋没林は地下深くに眠っていたと考えられている。
12世紀後半頃に、現在の中国福建省付近で作られた白磁碗
こうした遺跡が姿を現す契機となったのが、高度経済成長期以降の開発だ。とくに矢作川上流における治山整備やダム建設、付近での砂利採取などにより河床は低下し、水流によって土砂は次第に削られていった。今なお遺跡周辺の地形は浸食され続けている。今後慎重な観察の継続と、適切な保護が行われる必要があるだろう。
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」
考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、DIVER編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
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文・解説=中川永さん
豊橋市文化財センター/アジア水中考古学研究所会員/琵琶湖水中考古学研究会代表