水中写真家という生き方 尾﨑たまき

海の世界に魅せられて、写真という表現方法でその神秘性と美しさを追求することを生業にしている稀代な人たちがいる。水中写真家という職業。水中という制約の多い世界で時には危険と隣り合わせになりながらも、彼らが海中という舞台にこだわる理由とは? 独自の世界観を持つ水中写真家たちのインタビューを通し、そのバックグラウンドと思想に迫る注目連載。第2回は、社会性の高い独自のテーマを追い求め続ける女性フォトグラファー、尾﨑たまき。これまでの軌跡を辿るとともに、沸き起こる使命感の源泉を探った。 文=曽田 夕紀子

おざき・たまき

1970年熊本県熊本市生まれ。広告写真スタジオに入社後、水俣湾に興味を持ち本格的に水中撮影を始める。2000年に上京、中村征夫氏に師事。2011年独立。水俣をはじめ、三陸、動物愛護センターなどをライフワークとして追い続け、精力的に写真展で発表。著書に、水俣をテーマにした写真集「みなまた、よみがえる」「水俣物語」(ともに、新日本出版社)、動物愛護センターでの取材をまとめたフォトエッセイ「お家に、帰ろう~殺処分ゼロの願い」など。本誌でも活躍しており、水中撮影の腕はもちろん、ポートレートを撮らせたら右に出る者はいない実力派。

あらゆる分野において、女性の進出が当たり前のものになりつつある日本の現代社会でもなお、水中写真家というジャンルで女性の存在は希有だ。フォトグラファー界という大きな括りでいえば、近年ではむしろ女性の割合が増えてきているというのに、海という撮影フィールドが女性にとって過酷ということなのか、他になにか違う理由があるのかどうかは分からない。いずれにしても尾﨑たまきは、極めて珍しい女性の水中写真家である。ただ、そんな事実以上に写真家としての彼女を圧倒的に特徴付けているのは、独自のテーマを深く追求する社会派フォトグラファーとしての顔だ。

闇の中にも希望があるものを撮りたい。

20年前から撮り続けている水俣の海。東日本大震災後も逞しく生きる南三陸の漁師の姿。陸上では、犬猫の殺処分ゼロを掲げて活動する動物愛護センターの物語など……。ライフワークとして追いかけている被写体は数あれど、尾﨑が被写体を選ぶうえで共通している1つの大きなテーマがある。
「希望です。今がとても大変な状況だとしても、そこにわずかでもいいから希望があるものを私は撮り続けていきたい。写真を撮ることで、その希望の光を少しずつでも広げていくことができたらとても嬉しいですね」
穏やかな笑顔で話すその姿は、「社会派フォトグラファー」という緊張感のある肩書きから勝手に連想してしまう骨太で頑強なイメージにはあまり当てはまらない。しなやかで朗らかでまっすぐな瞳を持つ、どこまでも爽やかな人だ。ただ、その内なる部分には、不条理な出来事に立ち向かっていけるだけの勇気と正義感がしっかりと根を張っている。

南三陸の浪板海岸で出会った1センチにも満たないホテイウオの赤ちゃん。新しい命の誕生がまたこの海を賑やかにしてくれる

故郷は、熊本県熊本市。愛情深い両親のもとで3人姉妹の次女として生まれ育った。物心ついた頃から、犬、猫、ウサギ、カメ、金魚……と、生き物といっしょに暮らす生活が当たり前で、とにかく動物が大好きな子どもだったという。アウトドアが好きだった父親に連れられて、海や山へ遊びに出掛けることも度々あった。ダイビングの存在を知ったのも、魚を潜って獲るスピアフィッシングを嗜んでいた父親の影響だ。家にはタンクやフィン、マスク、ハーネスなどの機材が転がっており、時には幼い尾﨑も連れだって、父のエグジットを海辺で待つこともあったという。そんな風に幼少の頃から自然と刷り込まれた記憶があったからか、短大時代に「海の中を見てみたい」とふと思い立つ。季節は、2月。厳冬がもたらす大時化の海を、5㎜ウエットスーツで潜るというハードな条件下だったが、初めて体験する海の世界に尾﨑はひたすら心奪われていたという。
「捕まえられそうと思うくらい近い距離で、自分の目の高さと同じところを魚が泳いでいく。魚の世界にお邪魔してるという感覚がとにかく楽しくて、寒さも怖さもまったく感じませんでした。見上げれば明るい日差しが降り注いでいて、息が出来ないはずの水中で呼吸ができるというのも心地良かったですね」
それからはダイビングに明け暮れる日々。天草の海をベースに時には沖縄や九州の離島ツアーにも参加し、ほぼ毎週末、海へ出かけた。短大卒業後は、一度は目標だった保育士になるものの、多忙を極める生活で思うように海にも行けず、1年で退職を決意。ダイビングをしたい一心で沖縄へ移住しようと考えたが「仕事も決めず行くのはだめだ」と両親から猛反対を受け断念した。その後、熊本で仕事探しを始めるが、「なにか海にかかわる仕事がしたい」と考えた末、辿り着いたのがカメラマンの仕事だった。 「ダイビングツアーで一緒になった知り合いが水中写真を撮っていて、その写真がすごくキレイで驚いたんです。私も、自分が感動した海の世界を撮って、人に見てもらえたらいいなって思って。でも、写真の知識なんて全くなかったから水中カメラを買うにもどうしていいのかわからない。まずは写真の勉強がしたいと思って写真スタジオで働くことにしたんです。面接で『水中写真が撮りたいから』と話したら、担当の人は『は?』って感じでしたけどね(笑)」
主にコマーシャルフォトを中心に、人物、料理、商品などあらゆる撮影を手掛けていたそのスタジオは、働きながら写真を学ぶにはまさに最適な環境だった。撮影技術の基本の「き」すら知らなかった尾﨑は、まずは陸上撮影のノウハウを勉強。数か月かけて写真の仕組みを理解した頃、初めて水中撮影機材を購入した。伝説の水中専用一眼レフ「NIKONOS RS」である。
「ストロボとかNIKONが売り出したセットをそのまま買って、当時で100万円近く。迷ったんですけど、水中写真を撮るんだって自分の覚悟を固めるために借金してでも一番いいものを買おうと思って」
海の感動を切り取って人に伝える。そのための道具を手に入れたことで、尾﨑のダイビングライフはさらに熱量を増した。休日をほぼダイビングに費やし、多くのフィルムを無駄にしながら手探りで撮影データを取り、独学で水中撮影を覚えていったのだ。「誰かに見てもらいたい」という気持ちは日に日に強くなり、水中写真を始めて2年後には熊本市内にあるギャラリーで初の写真展「海へ行こう」を開催。ホームの海である天草を中心に海の美しさを表現した写真展には、当時、水中写真という物珍しさもあってか、様々な人が足を運んでくれ、写真の感想を直に聞かせてくれた。写真を発表する歓びを初めて体感した出来事だった。

多視点からテーマを追求するということ。

ライフワークとして撮り続けている水俣湾との出会いは、1995年。25歳のときのことだ。高度経済成長期に発生した4大公害病の1つ、水俣病。水銀を含んだ排水によって汚染された水俣湾では、1974年に水銀汚染魚の拡散防止のため全長4400mの仕切り網が設置された。それから20年。尾﨑が暮らす熊本県では、仕切り網の撤去の是非がメディアで毎日のように報道されていた。尾﨑の中で「海の中を仕切るなんてできるの?」という納得のいかない思いと、「海の中はどうなっているんだろう」という好奇心が湧き起こった。当時、カメラマン仲間とともに自費出版していた写真雑誌で水俣の特集を扱うことになり、尾﨑は水中撮影を計画。仲間が岸で見守る中、単身で水俣湾に潜った。 「透明度もあまり良くないし、地形もまったく分からない。水中をやみくもに行くのは危険だと思って、仕切り網まで水面移動をして網沿いを潜ることにしました。島に近いところだったから水深は10mくらい。奇形の魚がいるんじゃないかとか、魚なんていないんじゃないかとかネガティブな想像をしていたんですけど、実際に潜ってみると網に沿ってスズメダイがすごい量で群れていたんです。感動して夢中で写真を撮りました。それで海から上がってすぐ、仲間に『私、この海を一生撮る!』と宣言したんです」

当時、汚染魚の拡散を防ぐために設置されていた仕切り網。水俣に潜り始めて間もない頃、内側から撮影した一枚

それからは水俣湾がホームの海に変わった。熊本市から水俣まで往復4時間。当時は撮影許可を取るという発想もなく密漁者に間違われることもあったが、足繁く通っては水俣の海に暮らす生き物たちの姿を写真に収め続けた。
「仕切り網が魚礁の役割のようになっていてそこにはたくさんのドラマがあったんです。網に卵を産み付ける魚やイカがいたり、外敵に追われ網を擦り抜けて逃げる小魚がいたり、魚たちは網を巧みに利用して暮らしていました。人間が勝手に線引きを作ったけれど、生き物たちはそんなこと関係なく逞しく生きている。外側も内側も変わりはないというのを伝えたかったんです」

水俣の海で海藻が見事に繁茂する春は、私が一番好きな季節。海藻のトンネルで生き物たちが現れてはまた隠れる。まるでかくれんぼをして遊んでいるかのように

潜れば潜るほど使命感を強く抱くようになった尾﨑だが、一時スランプに陥ったことがあった。1997年のこと。長年設置されていた仕切り網が、安全宣言を受けて全面撤去されたのだ。それまで水俣湾の象徴的な存在である網にまつわるストーリーを撮り続けてきた尾﨑は、水俣湾の表現方法を見失ってしまう。しかも魚礁の役割も果たしていた網がなくなったことで、魚たちの姿もさっぱり消えてしまった。網もない。魚もいない。袋小路に迷いこみそうになったときに出会ったのが、水俣の漁師たちだった。
「仕切り網を撤去して漁が解禁になって、もともと仕切り網があったところに漁師さんが刺し網を入れているのを見たことがあったんです。そこに魚やイカがかかっていて……。ああ、ここで撮れた魚を生活の糧にしている人達がいるんだなぁって強く感じて。漁師さんに会いにいってみよう、と。それから水中だけじゃなく、水俣全体という視点から見るようになりました」
漁師の取材は、まさに言葉どおり体当たりで臨んだ。早朝、水揚げの時間に合わせ、漁協で漁師たちの帰りを待つ。魚が水揚げされるなか、タイミングを図って「どんな漁なんですか?」「何が獲れるんですか?」と話しかける。快く返してくれる人もいれば、あからさまに顔を顰める人もいた。水俣という土地柄、過去に心ない取材や報道をされ、マスコミを毛嫌いするようになった人も少なからずいたためだ。それでもいつしか家族ぐるみで付き合うようになった漁師の仲間たちもできた。なかには元水俣病患者という人もいた。船に同乗させてもらい、漁の様子を撮影し、たくさんの話を聞き、何度も通って心の触れあいを積み重ねた。そうやって取材を続けていくうちに、尾﨑のなかで水俣に向き合う気持ちに変化が現れたという。
「目線は確実に変わりました。それまでは、海の生き物を撮ればいいと思っていたから、チッソ(廃液を流し水俣病を引き起こした化学工業会社)に対して特別な感情はなかったけれど、自分の知っている人が苦しんできたって聞くと色んな感情が出てくるじゃないですか。水俣で獲れた魚を食べたことが原因で水俣病になったのに海や魚に対して恨み辛みが一切なく、漁を続けている人もいました。そういうことを見聞きしてまた海に潜ってみると、景色も違う風に見えるんです。例えば同じカタクチイワシの群れを撮るにしても、以前は、キラキラしていてキレイだなと思って撮っていたのが、この魚たちがあの人たちの暮らしを支えているんだなとか、過酷な環境のなかで命を繋いできたんだなとか、生き物の背景にあるものまで考えるようになったり。それと、人を撮ることがすごく好きになりましたね。漁師さんの年輪のようなしわの一本一本や、一生懸命仕事をしている姿がすごく美しいと思ったんです。それまで仕事でモデルさんを撮ったり散々してきたけど、人を撮るのが好きだって思えたのは、漁師さんを撮るようになってからなんです」

マダラやナメタガレイ、ときにはドンコが次々と揚がる。大好きな三陸の海に戻ってきた漁師さんたちの表情は朝陽に照らされいつにも増して晴れやかだ

スタジオカメラマンとして商業写真を撮りながら、休日は水俣へ通うという生活を続けて数年。29歳になった尾﨑は「ネイチャーカメラマンになりたい」と、8年間務めたスタジオを辞め、単身オーストラリアへと渡った。2か月間、旅をしながら作品を撮り溜め、売り込みに行こうと考えていたのだ。しかし、自分なりに懸命に撮影したつもりだったが、帰国後、現像を見てみるとなぜかピンと来ない。水中、動物、自然、観光名所、人々と色々とテーマを欲張った結果が写真にも現れていて、散漫とした印象しか残らなかったのだ。自信を失いカメラマン仲間に相談すると、「誰かに付いて1から勉強してみたら」とアドバイスをもらった。独学で撮ってきた水中写真をきちんと学びたいという思いもあり、水中写真家として憧れの存在だった中村征夫氏に弟子入りを決意。中村氏を知る知人を頼り、東京に行くというタイミングで同行し、本人に直談判した。しかし、「弟子はとらない」ときっぱり断られてしまう。
「その日、水俣湾の水中写真を見てもらったんですけど、けちょんけちょんに言われて。なんでこんなに露出が明るいんだとか、珍しいシーンなのになんでこれしか撮ってないの、とか。1からデータを取り直せ、今まで撮った写真は全部捨ててしまえ! って。悔しかったですね。今まで誰にもそんなことを言われたことがなかったから。でも同時に、やっぱりこの人の元で学びたいって思ったんです。写真は捨てませんでしたけどね(笑)」
数日後、諦めきれずにもう一度事務所を訪ねた。尾﨑の熱意に推された中村氏は根負けして、弟子入りを許可。熊本から東京へ。30歳を目前にこれまでのキャリアを一旦捨てて新天地へと渡った尾﨑は、中村氏のアシスタントを続けながら撮影技術を学んでいった。仕事には厳しい人だったが、おかげであらゆることを体得できたという。アシスタントといえども、後年は尾﨑指名の撮影依頼も受けられるようになるなど、自由度の高い環境を与えられていたことも好都合だった。水俣の撮影も続けられたからだ。居心地が良かったため中村氏のもとで働き続けることも考えたが、40歳を目前にして「不安はあるけど、やっぱり自分の力を試してみたい」と独立を決意。研鑽を続けること11年間。その間、技術的な知識や経験はもちろん、作品を撮るうえでの視点や姿勢という面でも師匠から学んだことは大きかったと尾﨑はいう。
「中村さんはこれと決めたらフィルム1本分くらい普通に撮るし、被写体への執着心がすごい。私はあれもこれもって欲張ってたから、こだわりの部分はとっても勉強になりました。それとどんな取材であれストーリーの組みたて方が中村さんは脚本家のように素晴らしくて。この1枚を撮ることによって、全体のストーリーが生きてくるというような写真を撮るんです。私が水俣を表現するに当たって色んな視点を採り入れていけるようになったのも、中村さんに教えてもらった部分が大きかったと思います」

フリーランスとして活動して5年。独立前の不安は杞憂に終わり、今や尾﨑のもとには水中写真を中心に、動物、自然、人などあらゆる撮影依頼が舞い込んでいる。と同時に、自身の作品撮りに精を出すことも怠ってはいない。撮り始めてじつに20年が経つ水俣は、近年、これまでの軌跡を写真展や写真集にまとめる機会も増えた。しかし、尾﨑は立ち止まることを知らない。今も水俣へ通い続け、次の発表に向けて作品を撮り溜めているという。ゴールはいったいどこにあるのだろうか。
「水俣はいまだに『水俣病』としての水俣としてしか見てもらえないという悲しい現実があるから、それを今は払拭したいという気持ちが強い。普通に魚も食べられるし、普通の暮らしがそこにはあるんだよっていうことをこれからも伝えていきたいんです。水俣にはああいう過去があったからか、健康にこだわった食品やものづくりの文化が根付いているんですよ。今後は、そういったことまで広げて取材をしていきたいと考えています」
社会性のあるテーマに惹かれるという尾﨑だが、「なにかと戦うような告発的なものは私には撮れない、たぶん私が弱いからでしょうね」と話す。いや、この人はけっして弱くなんかない。北風ではなく、太陽であるというだけだ。だからこそ、尾﨑の戦いは今後も長く続いていくことだろう。じっくりと時間をかけて光を降り注ぎ続けたそのさきに、希望の虹がかかることを信じて。(月刊ダイバー2016年1月号掲載)

月刊ダイバー2016年1月号より

ページ数:8ページ(P70〜P77)
容量:3.1MB(保存した場合)

>> 尾崎たまきオフィシャルwebサイト

AUTHOR

Amano

DIVER ONLINE 編集部

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