【平瓦の表面】
は、イソギンチャクなどで覆われていた。魚の隠れ場所にもなっている。
相島は、玄界灘に浮かぶ面積約1・25㎢、周囲約5㎞の島である。博多湾口の志賀島と、宗像宮の中津宮を祀る大島のほぼ中間に位置している。古くから海上交通の要衝で、島の北東部には古墳時代の積石塚(国史跡)が分布し、江戸時代には朝鮮通信使の接待施設、有待邸が設けられた。
古代の瓦の表面にはたたき板に刻まれた文字や記号を転写したものがある。それらの文字は、瓦窯を示す地名や瓦がふかれた建物の名称を示すものとされてきた。
平安京の朝堂院跡(京都市内)付近の発掘調査では、「警固」や「敬」銘のある文字瓦が出土している。これらの瓦は、斜ヶ浦瓦窯跡(福岡市西区)の瓦の特徴と一致することから、九州から運ばれたと考えられている。運ばれた理由としては、貞観18(876)年に焼失した朝堂院の再建に充てたとする説がある。
1990年代、相島沖で「警固」銘瓦が引き揚げられたことで、博多湾から平安京に向けての航路が一気に具体性を帯びてきた。
【発見時】
の平瓦。海底の砂と色調が似通っているため見過ごしてしまいそうだ。
相島で漁師により引揚げられた丸瓦の凸面に観察される格子目と☒印の陽刻は、斜ヶ浦瓦窯跡出土の瓦片と酷似する。アジア水中考古学研究所(ARIUA)で海底探査を実施することになった。
丸瓦の採集地点は、相島の南東のめがね岩の南東約150m付近。ダイバーが3人1組となり、目視による海底探査を行った。水深約15mで平瓦状の遺物1点が確認されたが、潮流が速く目印のブイが押し流されるため、GPSで遺物の原位置を記録した後、資料を回収した。表面に付いたイソギンチャクなどを除くと、斜格子と☒の陽刻が現れた。斜ヶ浦瓦窯跡の瓦片と同種で、平安時代頃の瓦とみて間違いなさそうだ。
【斜格子の叩き目】
引き揚げ直後の平瓦。付着物の無い箇所に斜格子の叩き目が見える(公的機関により発見場所の位置、深度方向などすべてのデータを取り引き揚げている)
「警固」銘瓦は、斜ヶ浦瓦窯跡と平安京、そして相島沖の3か所で確認されているが、意外なことに警固所が移置されたとされる鴻臚館跡付近ではまったく出土していない。
推測されるのは「『警固』銘瓦は、貞観11(869)年に移置された警固所にはふかれなかった」「『警固』銘瓦は貞観11年以後に斜ヶ浦瓦窯で生産された」などの状況である。
相島沖発見の瓦は、瓦を積んで都を目指した船で起こったアクシデントを通して、私たちにメッセージを発しているのかもしれない。
【名勝鼻栗瀬】
は相島のシンボル。通称めがね岩。
考古学3つの原則
「遺物には触らない」「遺物を動かさない」「遺物を取り上げない」 考古学では何がどこにどのようにあるかを確認することがもっとも重要です。3つの原則を守り、遺物かな? と思うものがありましたら、月刊ダイバー編集部までお知らせください! >>hp@diver-web.jp
写真=山本 遊児 (やまもと・ゆうじ)さん
水中文化遺産カメラマン/アジア水中考古学研究所撮影調査技師/水中考古学研究所研究員/南西諸島水中考古学会会員/The International Research Institute for Archaeology and Ethnology 研究員
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http://membership9.wix.com/iriae#!yamamoto-biografia/cddr
>>月刊ダイバーで連載中
文・解説=常松 幹雄 (つねまつ・みきお)さん
1957年生まれ、福岡市埋蔵文化財調査課長。主な著作に「九州」「考古資料大観 土器Ⅱ」(小学館2004)、「鹿と鉤の廻廊」「原始絵画の研究論考編」(六一書房2006)、「甕棺と副葬品の変貌」「弥生時代の考古学」(同成社2011)など